消えた銅山
むかし、秋山郷では地下資源として秋山銅山の操業時期があった。正徳2年(1712)飯山藩から京都の商人奈里清兵衛が委託される形で開発行為が始まった。2年後の正徳4年には精錬が行われたようだ。しかしながら、豪雪地帯ではその操業も限られた期間であり、箕作村、志久見村、秋山の村々から名主のもとに人足が提供されていた。期間は不明ながら銅山御用人足として425人、他に積雪期に備えて小屋の萱の撤去に25人が働いたという史料がある。銅山の責任者は箕作の島田三左衛門に書状を送って銅山の様子を報告し、又、島田三左衛門は自らの視察も行っていたようだ。鉱山経営は多くの人間が集まることになる。京都の商人、飯山藩の役人、鉱業技術者の他に「越後衆」と呼ばれる出稼ぎ労働者も働いていたようだが、出入りについては飯山藩の役人が押印した手形が必要であり厳重な管理のもとであったらしい。秋山の人々は商人が商品を持ってやって来ても、自宅に泊めることをしない誓約をしてるということは情報の管理も厳重であったようだ。享保3年質の良い銅石が産出されて順調だった鉱山も享保期以降まとまった関係史料は存在せず、ほどなく秋山銅山は密閉されたまま廃絶の道(1718)をたどったようだ。
その後、安永3年(1774)代官臼井吉之丞の時代に、間堀(試掘)が行われた記録があるという。なかば伝説的に幕末の佐久間象山による銅山開発があって、和山集落付近に銅の精錬が行われて痕跡があり、「佐久間屋敷」と呼ばれている場所には多くの鉱滓(スラッグ)あったが、鉱石をどこから運んだかが謎であり、屋敷集落では言い伝えとして、首を切り開け方面に向け言葉は発しなかったという。
佐久間象山は信濃の国松代藩から命じられ、資源調査のために秋山に入った沓野日記が存在する。合わせて切明温泉開発の出来事はあったが、封印された痕跡は秋山郷に今もなお消えた銅山の夢のあととして漂うばかりである。