鈴木牧之と秋山郷

鈴木牧之のプロフィールと秋山記行

鈴木牧之は、今から約240年程前の明和7年(1770)、越後の国、魚沼郡塩沢村(現・南魚沼市)に生まれました。
家業は質屋でしたが、縮(ちぢみ)織物や米の仲買も商っていました。
子どもの頃から俳詣・書道・絵画・漢詩などをたしなみ、その才能には非凡なものがあり、たいへん几帳面で堅実な性格でした。
73年の生涯の中で牧之は江戸をはじめ、しばしば各地に旅をしています。その先々で多くの友人を得ており、作家の滝沢馬琴、十返舎一九らと親交があり牧之の生涯に大きな影響を与えました。これらの作家たちの勧めにより、牧之を全国的に有名にした「北越雪譜」や「秋山記行」を著すことができました。
牧之は文政11年(1828) 59歳の時、初めて秋山を訪ねました。
「秋山記行」はこの地の珍しい風俗や習慣などを絵と文章で克明に綴った大変貴重な記録です。書き上がったのは3年後の天保2年(1831)でした。その後、出版依頼した十返舎一九が亡くなり、出版は宙に浮いてしまい、牧之も天保13年(1842)5月、死去(墓は郷里の塩沢町長恩寺に現存)、完成版といわれる「秋山記行」は出版されることがありませんでした。
現在、「秋山記行」と呼ばれるものは、自筆草稿本として現存する資料を指します。復刻本、現代語訳本もそれを元としています。
そして1冊で全てを網羅した「秋山記行」が出版されたのは、昭和37年のことでした。

 


鈴木牧之座像
(鈴木牧之記念館提供)

秋山探訪の旅程

鈴木牧之が見聞し、著した秋山記行の旅程(ダイジェスト版)です。

日付 時刻 場所 行動内容 〔人家数〕
文政11年(1828)
9月8日
(新暦10月16日)
早朝 塩沢 秋山へ商いで通っていた桶屋団蔵という案内人を得て、食料や衣類などを準備して出発する。2人旅
たそがれ時 見玉 天台宗見玉不動堂の別当、正法院に宿泊する、大きな囲炉裏に6、7尺もある薪をどんどん焚くのに驚く牧之。寺僧は不在だったので、村人から話を聞き、見玉不動のご利益などを聞く。〔34軒〕
9月9日 見玉 見玉不動尊をお参りする。
たそがれ時 小赤沢 夜具があると思われる福原市右衛門宅に泊まる。塗壁の茅葺きの新宅。なんとか落ち着くが、出された汁の粉豆腐に閉口する。家人から、栃の実の食べ方や、住居のこと、支配者、物々交換の品などについて、いろいろと聞く。〔28軒〕
9月10日 小赤沢 朝食に鹿(カモシカ)汁を出されるが牧之は断る。ここでの言葉で「キ」は「ケとかチ」と発音する。系図か黒駒太子の軸を拝見したいと願うが見せてもらえず。太子堂のみお参りする。
  湯本 秋山第一の難所、夢幻の世界に入るかのようである。団蔵は、キノコをたくさん採っていた。湯本到着、切り開いたばかりの畑がある。湯守の主人宅へ、主人は島田彦八、そこへ泊めてもらう。〔1軒〕
9月11日 湯本 寒くて早湯、宿では囲炉裏を焚いて暖かい。朝食後、狩人が来たので、夜話を聞きたいと約束し、もう一晩泊まることに決める。宿泊用の長屋を見学。子どもから雑魚川の案内を受ける。
夕方 湯本 狩人(秋田マタギ)と対面し話を聞く、秋山から上州草津への往来や山々や猟のこと、入山のルールなど細かく聞く、めずらしい猿の皮を購入する。
9月12日   屋敷 西の山際の道を通る、下結東までは道がよい。赤倉山(鳥甲山)はこの村の持山である。赤倉山の後のあたり西の方を十三万仏山と呼ぶ。大小の岩石の山が神仏を現すという。〔19軒〕
前倉 桶屋の知り合いの家を訪ね、お昼の場として休む。女房が「つまみなされ」と盆を差し出した。お茶代の代わりに短冊をおいていく、村はずれの小高い丘の中に社があり、大きな木を山師が板にしたものがあった、山師にかかれば御神体のような木もこの通りかと思う。〔9軒〕
  上結東 この地の上流(中津川)は水勢が強く、鱒漁ができるが、この日は行っていなかった。道々で皆が粟刈りをしていた。そこで桶屋の知人太右衛門に今晩の宿を頼んだ。道端に一升樽の酒樽があったが、水樽として使っていた。宿の家は、土間があり、板の間には稗・粟を貯蔵するカマスがあった。〔29軒〕
9月13日   逆巻 猿の集団をみる。樹海を抜けると逆巻にでた。初めて土蔵を見る。猿飛橋を渡るのに、近くで案内人を得てスリルある橋を渡った。〔4軒〕
見玉 正法院でお昼にする。また法印様は留守であった。
  小出新田 市右衛門宅に泊まり、大蛇の話を聞く。
9月14日   塩沢 早朝出発し、時雨の中、無事帰宅する。

平家落人伝説

秋山の平家は城氏か?

秋山は、平家の落人伝説で有名です。文治年間(1185~89)に、平勝秀が源頼朝に敗れ、その一族が草津より逃れて、屋敷村に住みついたと伝えられています。牧之は、上結東の太右衛門老人から平家の落人にまつわる話を聞いています。
小松原の大屋敷跡は、昔、平家の落人がここへ住みついたが、雪がたくさん降るため、大秋山へ移ったという。また、上の原の山の大穴には、大女の妖怪がいて、平家一族の末裔の村長が、退治に行ったところ、名刀の蜥蜴麿(とかげまろ)が鞘から抜け出て、妖怪を真二つに斬り、元の鞘に収まった、と伝えています。また、牧之は、「よくよく考えてみると、平家は、こんな山の中を知ってはいなかっただろうから、秋山の平家は越後にいた城氏であろう」とも述べています。

城氏は、平維茂(これもち)から四代目、城鬼九郎資国(じょうのおにくろうすけくに)の長男、城資長(すけなが)の代まで、高田の鳥坂山(とっさか)に城を構え、越後に勢力をふるい、朝廷に謀反の心を持っていた。朝廷の命令によって、上州磯部の佐々木西念(さいねん)によって城氏は滅ぼされてしまった。その中のあるものは、千曲川沿いに奥州へ逃げたであろう。秋山の入り口の見玉村は、この千曲川のすぐ近くだ。この落人はきっと中津川をさかのぼり、谷の奧に住み着いたのであろう。また、小松原の大屋敷跡は、住居跡でなく自然の地形に他ならない

と書いています(前出)。

秋山の食

秋山の食

「役所に出された書き上げ(報告書)には、水田はほとんどなくカンノという焼畑農業と、木の実に頼る生活をしていたとある。
カンノでは、粟・稗などの穀物を作り、大根や蕪などの野菜を育てていた。収量の多かったのは、粟である。木の実は、栃の実と楢の実を食用にした。一般的には栃の実を利用する人が多く、秋拾った栃の実は十月から春まで食べた。
「昔は栃や楢の実をたくさん食べたが、今では粟や稗をよく食べるようになりました。朝食は稗で作った焼餅、貧しい家では粟の糠に稗をまぜて作った焼餅を食べます。夏、秋の季節は、雑炊に蕪の根や菜を入れ、粟を少し入れて食べます。お客に出す粟だけの御飯は上等です』と土地の老人が語った」と記しています。

秋山の豆腐

牧之は、小赤沢で豆腐に出会いましたが、現在でも秋山郷では伝統的な豆腐づくりが残されています。
地元では、ニガリのことをミズ、メダレ、ニガレと呼びました。昔は、塩はカマスで売られていて、カマスの目から垂れる液をメダレと呼びました。
大豆を洗い、水に漬けてふやけさせた大豆2升を豆腐石臼で引くとドロドロの液体(呉)になり、それと同量程の湯をシャモジで混ぜながら煮ます。
メダレは、2升の大豆に対して湯のみ茶碗(1合)で2杯を入れます。このメダレの垂らし方がポイントで、一度に入れずに、2、3回に分けて入れます。そして、やさしくシャモジで混ぜます。そうすると、豆腐の肌がキメ細かくなります。熱いうちに、木綿を敷いた流し箱に入れ、30分ぐらい重石をした後、水にさらすと「秋山豆腐」の完成です。
この秋山豆腐はかって、正月、小正月、十二講、三夜講、庚申講、そして彼岸や盆などのハレの日の料理として提供され、牧之も小赤沢で食べています。

秋山のすまい

秋山家作の図

「家の内部を見ると、横に3尺くらいずつ間をあけて、細木を柱に入れてよしずを縦に結びつけてある。
外側は、茅でおおわれ柱は一本も見えない。とびとびにある窓も非常に小さく数も少ない。仏壇らしき所には縄でつり棚を下げ、古い仏画のかけ軸一、二幅をかけ、大神宮の御祓い、えびす様、戸隠神社のお札も見えた 引用:秋山記行(刊・恒文社)」と、紹介しています。

 


小赤沢の保存民家

秋山の民家

牧之は28軒ある小赤沢の集落のうち、里と同じようなふとんを持っていると思った福原市右衛門宅へ一宿を願います。
建て直したばかりの壁塗りの6間、4間くらいの大きな茅葺民家でした。「主人は、『火棚に頭をぶつけないように、炉端へどうぞ』という。
そこで、帯を締めて炉端へ座ったが、火棚が頭に当たるので、あぐらをかかないと火のそばへ寄れない。
火棚は、8、9尺の2本の木を縄で吊り下げ、その上に茅の簀を敷いたものである。火棚には、粟の穂を山のように積み上げて干してある。これまで秋山の村ごとに、たびたび見かけたものだ。囲炉裏の真ん中に、上げ下げできない形式に又木を鉤として下げてある。鍋の大小により、つるに何本も結んだ長さの違う縄を鉤にかけることで火の距離を調節する。鍋のふたは2寸くらいの棒を真ん中につけて取っ手にしている。火箸はなく木の枝で火をつくろっていた 引用:秋山記行(刊・恒文社)」と、牧之は紹介しています。


牧之が描いた民家の内部の様子をよく見ると、上には火棚が吊るしてあり、煙管(きせる)で煙草を吸っている人もいます。そばには、煙草入れと煙管、椀が二つほど見えます。
また、子どもが入っているツグラは「木ノ曲物(まげもの)」と註書きがしてあります。
煮たばかりの吊り手付きの鍋が2つあり、その横には大きな膳1つと小さな膳3つが見え、折りたたみの膳一、小皿、椀、汁椀の組み合わせが見えます。また、そこに向かう婦人が粟飯のようなものを運んでいます。
片隅には、その焚木となる大木保存民家(小赤沢)が4、5本寄せてあり、その横には、臼と杵、木鉢などが置かれ、粟を入れたおひつ状の編み物があり、右奥には俵が7つ見え、左奥には簾が2枚垂れ下がっているのがわかり、当時の日常生活の様子が克明に描かれています。

牧之が滞在した秋山の温泉

湯本

牧之は文政8年(1825)に開かれた和山温泉を横目で見ながら、秋山一の難所を2里歩いて湯本に向かいました。
牧之は、この難所を越え、急ながけを藤つるにつかまり、2本の細い丸木橋を渡り、やっとの思いで湯本にたどり着きました。

当時の湯本は中津川左岸の雑魚川との合流点の少し上手にあります。
この周辺は信州箕作村の島田三左衛門の統治にあり、宿の主人の島田彦八によると島田三左衛門が文化5年(1808)に湯本を開いて、牧之が訪れた時が20年目くらいだと語りました。
現在の保養センター雄川閣やリバーサイドハウスは、当時の宿の反対側の右岸に位置します。牧之が、この湯本を訪ねた19年後の弘化4年(1847)に善光寺地震が起こり、赤倉山(鳥甲山)の斜面が崩落し、中津川をせき止め、自然湖が生まれ、湯本の宿は水没したと言い伝えられています。
翌年の嘉永元年(1848)に、佐久間象山がここを訪れ、土砂を切り開く工事を指揮し、中津川の流れを復興したことで「切明」の地名が付いたといわれています。
牧之の帰路は、屋敷、逆巻を通過していますが、温泉について記述がないことから探訪した文政11年には、まだ屋敷温泉や逆巻温泉は開発されていなかったようです。

秋田からやってきた猟師

マタギ

2泊した翌朝、冷や飯にお茶を注いで食べているところへ、秋田の狩人が2人見えた。
そこで、猟師の生活に興味を持っていた牧之が、具体的に話を聞きたいと頼んだところ、もう一晩泊まってゆっくり聞くことになりました。
牧之等は、薬師堂をお参りしたり、湯守りの子供に滝や渓流など、いろいろ案内をしてもらい、夕方、宿に戻りました。食事をすませると、狩人が1人約束通り訪ねてきました。

年齢は、30歳くらいに見え、いかにも勇猛そうな男である。
熊の皮を着て、やはり熊の皮のたばこ入れを前に置き、鉄張りの大きなキセルで煙を吹き出す有様は、あっぱれな風格である。

引用:秋山記行(刊・恒文社)

と、牧之は語っています。
この猟師は、秋田城下から三里離れた山里が生まれ故郷といい、捕った獲物を売りに、草津と秋山を往復しているということでした。その話として、

「器のたぐいは鍋の2つ、3つ、椀は人数分あればよし、着るものは猪や熊の毛皮で、いつも着ているものを夜具として寝て、寝ござが1枚ずつで間に合わせています。小屋は前に2本の又木を建てて桁を渡し、まえは高く後ろは低く、9尺四方くらいにかけ、細木を渡して大木の皮で屋根を葺きます。小屋の後部だけは塞いで、三方は開け放しです。敷くのは全部草です…(略)…」
「獣は、夏はヒラというワナをかけてとります。ワナは3尺くらいの2本の又木に桁をかけ、木の枝をいっぱい上に並べ、その上に大石をいくつも載せ、草木でおおって石が見えないようにして、獣の通り道に仕掛けます。…(略)…最初に話した猟小屋の近くにいくつも仕掛けておきます。ワナの下の蹴綱に獣の足が少し触れるだけで大石がどさっと落ちる仕掛けになっていて、獣を押し殺します」
「幸い、最近捕った猿の皮が2枚ありますが、ご希望ならお譲りします」

引用:秋山記行(刊・恒文社)」

というので安く買った。カモシカの角3本と山鼠の尾をただでくれた、と牧之は克明に記述しています。

もっと詳しく知りたい方は、下記書籍をご覧下さい。

なお、このページをまとめるにあたって、下記書籍の一部引用、転載させていただいております。
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  • 鈴木牧之「秋山記行」

    現代語訳
    訳・解説 磯部定吉
    恒文社
    価格:¥1,890(本体:¥1,800)
    サイズ:20cm/117p 図版16p
    ISBN:4-7704-0978-8

  • 江戸のユートピア

    秋山記行
    鈴木牧之記念館
    025-782-9860